昨日取り上げた、「第4密度の存在は哀愁を感じるのか」という問いですが、
突きつめると、
「仏は悲しみを感じるのか」
に行きつくと思います。
仏教では、「慈悲」を説きます。
慈悲という言葉には、「悲しみ」が含まれていますが、この言葉は、「抜苦与楽」と同じ意義だと言われます。
つまり、人々の苦しみを抜き、楽を与える。
なので悲しみの意味はありません。
何かで読んだのですが、
釈迦の弟子が、「釈尊は悲しく思われることはあるのか」と問うたところ、
「そういうことはないが、しいて言えば、みなが苦しみの世界にいて解脱できないことを思うときだ」と言われたとのことです。
ということは、仏は普通は悲しみを感じないということ。ただ例外は、衆生の苦しみを見るとき。
我々が悲しくなるのは、欲が満たされないとき。
一切の欲から離れた存在になれば、欲が満たされるとか、満たされないとかいうことはないので、悲しみもない、ということになります。
ただし、すべての仏は、願(がん)を立てます。
たとえば、阿弥陀仏は一切衆生を救おうと48願を立てました。
そういう願を立てた理由は、一切衆生を憐(あわ)れんだからだと思います。
「憐れみ」って、悲しみに近い気がします。
さらに、その願が満たされない現状を見るときには、やはり、悲しみに似た感情は出てくるということでしょうか。
この問いは、もっと考えてみる価値はありそうです。