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「2021年5月」の一覧
ニックネーム : B
【情報と数】
物質・非物質ともに、形のある世界(形而下)では、情報の次元を持っている。
この情報のデータ量は、2進数で0か1かを決める1ビットなどの単位で、「数字」として表される。
物質世界で触れる情報は、例えば動画などで保存が出来るが、画像や音に加え、味覚、嗅覚、触覚、意識に浮かんだ物事もデータ形式を決めて追加すれば、データ量はさらに大きくなる。
この宇宙全体の情報を保存する場合には、データ量は更に膨大な大きさになるが、大きな数ではあっても、有限の数字である。
宇宙の未来までを含める場合、もし宇宙が無限の時間存続する場合は、データ量は無限大となる。この無限大とは、0や1の形式での情報が無限に続くという意味での無限大である。
<背景等1>
旧約聖書の神は、髪の本数のような大きな数を数えられるとされていた。
古代ギリシャのピュタゴラス学派では、自然数(整数)に加えて、2つの数の比である有理数(分数)によって、世界を理解できると考えた。ピュタゴラスに基づく音楽の和音(純正律)は、振動数の比率が簡単な分数となる。(ドとソは1.5倍など)
このピュタゴラス教団の教義には、矛盾が存在した。一辺の長さが1の正方形の対角線は、2の平方根だが、このような簡単な幾何学図形も分数では表現出来ない。ピュタゴラス学派自身のシンボル(五芒星を重ねた図形)に現れる黄金比も分数では表せない。
この知識は、教団内で秘密とされていたが、教団に所属するヒッパソスが公開してしまい、その後ピッパソスは姿を消した。殺害されたとも言われている。古代ギリシャの秘教集団で発生した殺人事件・・・似たような過去生体験を聞いた事がある。
この経緯を知ったプラトンの教義では、自然数と分数に加えて、幾何学や方程式に現れる平方根などの無理数が含まれ、彼の設立したアカデメイアの入り口には「幾何学を知らざる者は、この門をくぐるべからず」との言葉が掲げられた。
この場合の無理数は、方程式の解などとして現れる代数的数に限定されるが、後のカバラでは、神に繋がる数の体系として代数方程式の解として現れない円周率πや自然対数eのような超越数も認識されるようになる。
<背景等1完 >
【情報を超越するワンネス】
0と1から出来ている情報(データ)の頭に「0.」を付けると、0.10110…のような数になる。これを二進数の少数と考えると、数直線(実数)の0から1までの範囲内の数となる。(二進数では、各桁が2になる段階で繰り上がるので、整数の場合1+1=10のように10が10進数の2を表し、少数では0.1+0.1=1.0のように0.1が10進数の0.5(1/2)を、同じく0.01が10進数の0.25(1/4)を表す。)
データの最初に0が多く、0.000…となる場合は数直線の0に近ことを意味し、1が多く0.111…の場合は1に近い点を示している。
この変換で、宇宙の未来・過去を含む巨大あるいは無限の情報も、数直線上の1点を指定する操作に置き換えられてしまう。小数点以下のある桁までで終了する数列は有限な宇宙、同じパターンを繰り返す有理数は循環する宇宙、大部分の超越数は無限に続く循環しない宇宙。ここでは、全ての情報パターン(1と0の組み合わせ)、つまり全ての可能性が存在している。地球が太陽以外の恒星を巡る宇宙も、太陽系がアンドロメダ銀河に存在する宇宙も含め、考えられる全ての宇宙は数直線上に存在している。
その中には、同じ宇宙であっても、私がこの世界での私ではなく他人である宇宙も存在する。この世界で他者として現れる人物は、異なる世界における私であり、反対にその人物が私である世界では、この私<人格>は他者である。私に帰属する(この)世界の点では、私はただ一人この私<人格>であり、数直線の別の点・別の人物に帰属する世界ではその他人が唯一の「私」となる。
また別の点では、私はこの私<人格>でありながら、異なる可能性を生きている。
各点は、それぞれ異なる私に帰属して、意識レベルがその中に埋没している場合、他者を生きている世界や、この私<人格>でありながら異なる可能性を生きている世界を認識できない。さらに近視眼的(物質的)な意識は、同じ点の中でも過去や未来の情報を読み取ることが出来ない。
なお、今認識している情報(01001…)が「今」の本質ということではない。自己の認識作用自体が「今」であり、意識レベルの違いによって、過去から未来までを認識する意識も、世界の枠を飛び越えて複数の平行世界を把握する意識も「今」として存在する。数直線上のある点での小数点以下の0,1といった数字の並びから、過去⇒未来という時間の並びを設定する事は出来るが、認識作用無しには「今」という特定の点は設定されない。
意識を拡大した時に見えてくるこの数直線(実数)の世界の本質は、「全ての可能性が存在している」「各世界が完全に連続である」という2点で、数えられる数の多数の個別世界が集合したものではない。各世界は無限に近接した類似世界と連続的に繋がっているので、パラレルな世界が並列で存在しているという描像とは異なっている。連続に存在する世界の中には、パラレル世界も含まれているが、それは無限に存在する実数の中の異なる一点に過ぎない。このため、私がこの私である世界と私が他者である世界をパラレルで交流の無い別世界と見るのは、まだ物質的な見え方であり、実際には連続的に繋がっている。
また、時間についてより正確に記すと、今この瞬間の世界(宇宙)と過去や未来の世界(宇宙)が連続的に繋がっているわけではなく、断絶している。意識は、短い瞬間ごとに、無意識との間を行き来している。意識の拡大時には、無時間で無意識である領域に気が付くようになる。これは、意識が数直線上のある点(のある桁の周辺)から矛盾が無い範囲での別の点(のある桁)へと跳躍をしている事を示している。このため、世界に時間順序はあっても、世界自体が変化するのではなく、意識が世界から世界へと跳躍を繰り返す。
薪は灰になり灰は薪にならないが、灰は後で薪が先ではない。薪と灰は前後があっても、その順序関係は連続では無く絶ち切られている。(正法眼蔵より)
<背景等2>
無限大について思索した数学者カントールは、ユダヤ人の血を引いていた。彼自身はユダヤ人(ユダヤ教徒)ではなくカソリックであったが、母方が隠れユダヤ人(マラーノ)の家系でもあったようである。ユダヤ教の中で、神秘主義的なカバラでは、巨大な数が神の創造に関連する概念と見なされたが、カントールもヘブライ文字、ℵ(アレフ)を用いて、各種の無限大を表現している。
カントールは、まず加算無限をℵ_0と名付けた。加算無限とは、数を無限に数えていった極限(1, 2, …∞)で、先ほどの例でいえば010100010011101…といった無限数列の桁数に該当する。
この無限大のℵ_0は、通常の数とは異なり、以下のような性質を持っている。
ℵ_0+ℵ_0=ℵ_0 (1)
ℵ_0×ℵ_0=ℵ_0 (2)
(1)の例としては、奇数全体の集合(無限大)と偶数全体の集合(無限大)は自然数の部分集合だが、これらを合わせた自然数全体の集合(無限大)は無限大としては同じ(同じ濃度という)になるという性質を表している。
一見奇妙な数式だが、例えば偶数を2で割ったもの全体を自然数と対応付けると、全ての数が完全に対応して、無限大まで漏れなく包含できることが分かる。
2÷2⇒1、4÷2⇒2、6÷2⇒3・・・
これを情報という観点に置き換えると、例えば外面世界の情報と内面世界、あるいは視覚と聴覚などの情報がそれぞれ無限大であったとしても、合わせた情報の濃度は同じになるという事が成り立つ。
また、(2)は無限の情報の間(例えば外面世界と内面世界)で相関的な関係を持たせても、濃度は変わらないという事を意味する。
ここから、数直線上の同一点の世界がどのように構成されていたとしても、濃度は同一だという事が出来る。つまり、世界の内部(ある一点の点の内部)での努力で世界を変更する事によっては、異なる濃度へは跳躍出来ない。この試みは、0と7の情報を変更する事になるので、異なる点へ至る努力であり、移行した点も、数直線上の孤立した特定の点世界ということになる。
足しても掛けても変わらない無限大の濃度を変更(拡大)するにはどうしたら良いのか。
これは、べき乗という計算で達成される。
2^(ℵ_0)=ℵ_1
2のℵ_0乗は、より高い濃度ℵ_1となる。また、これが実数の濃度である。
この計算が何を意味しているのか、組み合わせとして考えると理解しやすい。
2のℵ_0乗は、ℵ_0回だけ2択を行う組み合わせのパターンに等しい。
簡単な類似の組み合わせの例として、前菜・主食・デザートの選択肢がそれぞれ2つずつ存在するコースであれば、組み合わせのパターンは2の3乗で8通り存在する。
2のℵ_0乗の場合、0.1100101…という無限に続く少数の各桁で0か1かの選択を行う組み合わせのパターン数に等しい。つまり、0.00000…から0.111111…まで、数直線の0から1までの全ての数を網羅している事をしめしているので、実数に等しくなる。それと同時に、全ての0と1の組み合わせ、全ての情報あるいは世界のパターンが網羅されていることになる。
<背景等2完>
仏教では、三千大世界と呼ばれる膨大な数の個別世界(1000の3乗個の世界)を一人の仏が教化するとされている。これも、ワンネス(実数)側の視点に立って個別世界(実数上の個別の点世界)を見ると、誇張表現では無いことが見えてくる。
この一方で、個別世界はワンネスに包含されていることから、両者は隔絶されたものでは無く、個別世界に埋没した意識にも並列する複数世界が反映される。(一念三千)
ワンネスの中に個別世界(迷いの世界)があり、個別世界を離れてはワンネスも存在しないとことから、「迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。(現成公案 道元)」のような表裏一体の関係にある。
【ワンネスの階層性】
実数は、個別の数や対応する個別世界と異なり、連続であり分離の無いワンネスである。数直線上の各数値が完全に実数上に埋め込まれて分離しがたいように、ワンネスから個別世界が流出したのか、あるいは各世界は幻想なのかという議論には意味が無い。世界はその始めから終わりまでワンネスの中に存在するが、ワンネスに対して無限小の点である。
小数点以下の各桁の数値(0や1)を読み続けても、数直線(実数)全体が把握できないように、世界を内側から認識する意識とワンネスの意識では、そのありようが異なっているに過ぎない。
それでは、ワンネスの世界は実数という表現で尽きているのかというとそうではない。
2のℵ_0乗を考えたように、以下のような無限大の体系を考えることが出来る。
2^ℵ_1 = ℵ_2, 2^ℵ_2 = ℵ_3, …
例えばℵ_2は、実数上に連続的に存在するの全ての点について、2つの選択択を持つような濃度を持っていて、ℵ_1(実数)は、ℵ_2内の特定の無限小の点(組み合わせのパターン)だという事ができる。
これらの全ては、実数の場合と同様に連続で、ワンネスを構成している。ワンネスは連続でありながら階層構造があり、黄金のスープや個別存在を超えた灰色の世界といった体験を超える奥行きを持っている。
華厳経の相即相入という言葉は、「一の中に多があり、多の中に一がある」などと説明されるが、『華厳五教章』の中では、縁起は事物どうしが「相即相入」することで起こると説明されている。個別世界の個別事象も相即相入するのであるが、個別世界がワンネスと相即相入する事によって(この話の中では、特定の数が実数の中に存在し、逆に無限の数の集合から実数が構成されるように)起きていると捉えることが出来る。
さらに、実数はより高い階層のアレフ数と相即相入することによって成立している。これら全体でより大きなワンネスを構成している。ワンネスを海に例えると、個別世界の水の表面に対して、浅瀬や深海が存在するようなもので、ワンネスの体験も階層の高低が存在しその全体でワンネスの世界を構成する。このため、ワンネス体験もその深浅に応じて、無数の異なる体験となる。
個別世界と低い階層の実数(ワンネス)との関係は『大乗起信論』の記述と比較する事も出来る。その説明では、真如(真の存在世界;ワンネス)が無明の影響(薫)により、盲心を生じ、無明に逆薫する事で盲境界(分離した世界認識)を生じるという形で世界が生起される。無知がワンネスを分離したものと見なし、分離に対する信念が無知の認識自体に逆影響して、業(カルマ;心のはたらき)が発生する。(業相)
分離という視点で数を見てみる。2進数で0以上1未満の少数を、各桁ごとに認識する時、小数点以下第1位の数値が0の場合には、読み取る数値の点は、実数の0から1までの中間点(10進数の0.5)より0に近い点にあり1に近い半分(0.5以上の可能性)は除外され、1の場合は中間点より1に近い位置にあり0に近い半分は無視され、その残り半分が選択される。同じように第2位の数値が0の場合は残った範囲の小さい側が選択され(0.00…の場合は0.25未満)、1の場合には大きい側が選択される。このように、ある世界特定していく認識(具現化)は、本来一体である連続的な世界を分割し、選択し、それ以外を排除する行為となる。また、この構造は明らかに両極性(二極性)と通じるものとなっており、二極性によって、この世界が具象化されている。
ここから言えることは、真理はこのような二極性に基づく情報ではないという事である。
情報とは有限な数だったが、加算無限、実数、その先の無限の世界は有限な数の演算では到達できない。このため、真理を言葉で示唆する際は、「瞑想での体験」を暗示する遂行指示の命題など通常の言語使用から外れた語りかけにならざるを得ない。
これは、無限回に数えるという仮想的行為でℵ_0に到達し、具象世界で実行不可能な無限回のべき乗でℵ_1が生成されたように、具体的言語が直接的に位相の異なる世界の実態を反映する事はできない。(言語記号とそれが示すものの通常の関係ではないため、言語学的なシーニュの構造とは様態を異にするとも言える。)
【ワンネス(絶対有)を包含する無】
無限大の体系は前述の操作で生成されるアレフ数のみではなく、2^ℵ_n = ℵ_(n+1)の繰り返しでは到達できない「巨大基数」が存在する。これは有限の数から実数に到達できなかった事と同様に、実数からは演算で生成する事が出来ない。通常の数や加算無限からは生成できない高い濃度の数の体系であり、実数から始まる無限の体系(ワンネス)は、この巨大基数から見ると無限小の部分として含まれている事になる。
この巨大基数についても、階層が存在する。
巨大基数のうち、最小のものをℵ_ωとすると、2^(ℵ_ω) =ℵ_(ω+1)という操作が成り立ち、ここにも無限の階層が存在している。
有限の世界が通常の認識で、ワンネスが瞑想体験で根源的な絶対存在として認識されたのに対して、到達不可能なこの状態は認識の対象となることが無く、ワンネスの絶対有に対して絶対無として体験される。ワンネスは、根源的な意識であり個別世界に先立つ超マインド素材(ダスカロスの用語)あるいは原初のスピリットだといえる。これに対して絶対無は、意識に先立つものであり、認識しそれ自体は認識され得ないもの(≒根源的な主体<自己の本質>)と対応関係にある。数における無限の分類で理解されるように、ワンネス・絶対有・根源的意識は、絶対無・根源主体の無限小の一部としてそこに包含されている。
このように、有無の無でもなく、虚無の無でもない、存在を超越し内包する巨大な無が示唆される。
このように全ての存在とその可能性は、絶対無である自己の本質に含まれている。
整理してみると、まず、情報の数列の全てとその組み合わせの全てが実数に包含されるように、世界は生み出されることも滅する事も無く、各世界の始まりから終わりまでもが一元的で「存在」に含まれており、さらに全ての世界の可能性の組み合わせのその組み合わせの・・・という無限大の体系を含んだ根源的存在も、無である自己の内に無限小の部分として存在する。
実数を含めた無限の体系が、到達不能なより巨大な数体系の一部に含まれて存在しているように、ワンネスを含めた存在全体は、より広大な絶対無の場の中で存在することが可能となる。このため、絶対無は存在を存在たらしめる場所、無は「存在の場所」を構成していると捉えられる。ここで、絶対無は認識されることのない認識主体であり、絶対有は認識される客体とその素材であるため、認識の客体が認識主体の場の内側に存在するという構造になっている。
【絶対無の観点から観るカバラと老子】
カバラにおいても、無限大に先立って無が存在するとされている。無が無限に先立つのは、ここまで見たように無限は無に内包されて存在するからである。0と1から成る情報の性質(個別性)が、全ての可能性が網羅される実数の中で溶解するように、ワンネスの原初の性質(絶対的存在の特性)も、存在認識を超えた(原初の意識に先立つ)絶対無の中で溶解する。
また、絶対無である自己(≒プルシャ)は、個別の世界の中にも浸透して、「今」という瞬間によって世界を認識し、絶対有(≒プラクリティ)は世界を生成していく。
この観点に立つと、『道徳経』についての老子の宇宙観が見えてくる。
道の道とすべきは、常の道にあらず。
名の名とすべきは、常の名にあらず
無は天地の始に名づけ、有は万物の母に名づく
故に常に無は以ってその妙を観(シメ)さんと欲し、
常に有は以ってその徼(キョウ)を観(シメ)さんと欲す
この両者は同出にして、名を異にする
同じく之を玄と謂う
玄の又玄、衆妙の門なり
老子『道徳経』
無限と無に則ると、3行目以降は以下のようになる。
無は世界の始めであり、有(絶対存在)は個別世界の母体である。
時間を超越する無は、認識主体として妙(神秘、法則)を明らかにしようとし、認識の客体として世界を形作る有は徼(境界、分離、具象化)を表現する。
これらは共に同じ玄(深遠で認識されないもの、高次の絶対無)から現れる。
玄[{(絶対無、ℵ_ω)から構成されるさらに大きな巨大基数(ℵ_(ω+i))}、あるいはこの操作でも到達できないさらなる巨大数、無の深遠]は、衆妙(すべての神秘)の出現するゲートである。
【ワンネスの表現】
ワンネスは、愛や真理といった表現の方が一般的だが、全ての存在はワンネスの表現であるため、いずれの用語も同一の内容を意味していることになる。それと同時に、どの表現もそのものではありえない。
愛の視点で見ると、愛のみが存在するワンネスへと、無償の愛、無条件の愛、無制限の愛、無限の愛など各段階を経て発展していく。この過程では、私と他者の間の堅固な境界が薄まり、その間を繋ぐ愛という掛け橋が主要な位置を占めるようになっていく。やがて境界は消失し、自己と他者の区別が無くなり、元々は関係性であった愛のみが存在するようになる。
分離の世界では、私(A)と他者(B)は相違しており(A≠B)、またこの二者の関係性(二次的な存在)として愛(C)が定義された。一方、到達点であるワンネスでは、私と他者は区別が無くなり(A=B)、したがって私も他者も存在せず(¬A, ¬B)、二次的な関係性であった愛(C)が唯一の存在となる。
真理に向かう過程もこれと同様に、私(A)と知の対象(B)は認識(C)という関係性を通して接触を開始するが、瞑想(三昧)の中で私は対象と合一し(A=B)、私も対象も無く認識主体(C)のみが残る。ここでは、真理とは私とは別の対象について知る事では無く、私=対象という意識のみが存在する。
ヨーガの説明に対応させると、バクティ・ヨーガ(愛と奉仕の道)とギヤーナ・ヨーガ(知恵の道)が、実際には同一のもので同一の地点に到達する。
あるいは、キリスト教などの一神教で、私(A)と祈り(C)の対象としての神(B)の組み合わせの中で、神との合一(A=B)を迎え、主体も対象も持たない祈り(C)のみが存在するようになる。願望の成就を神に願うのを悪性の祈りともされるが、これは、動機が不純であることのみを問題とするのではなく、祈りの本質は瞑想と同様に合一を目的とする行であり、願望の対象を自身と分離した状態に強く意識し続けることが、この妨げになるためである。
大乗仏教では、覚りに至る過程について三乗と一乗という二つの道程が示され、いずれが真実あるいは方便かという論争(三一権実論争)が行われた。
三乗は、教えを聞いて悟る声聞乗(しょうもんじょう),独力で覚る縁覚乗(えんがくじょう),他者を救済する利他行を行う菩薩乗(ぼさつじょう)に分類され、それぞれで至る悟り(覚り)の境涯も異なる。
一乗は、これらの教説は方便であり、絶対平等の観点からすべての人は成仏でき、唯一の教え・境涯があるとする。
これを、私(A)と他者(B)の区別が無くなるという視点(A=B)から見ると、他者が私を導く声聞乗、私が修行し私自身を導く縁覚乗、私が他者を導く菩薩乗という区別は消滅する。分離によって成立する自他の区分(AとB)が消滅する修行過程(C)自体が、覚りなので、修行と覚りが区別されない(修証一等)という観点からもワンネスである。
菩薩乗の平等性を拡大した先には草木成仏論が現れる。自(我)意識を持つ人・動物に限らず、植物や無生物にも平等に覚りの可能性があるという思想である。ここでの疑問点は、植物や無生物は成仏する(覚る)のか、また成仏するとしたら人の成仏を契機としての成仏なのか、あるいはそれ自体で成仏するのか。
実際には、全てがワンネスの中に存在するのに対して、自意識の働き(無明)によってそこから切り離されてたと誤認するのが迷いのプロセスだった。自分の迷いを意識するようになると、再びワンネスに到達する事を志向するが、元来分離など存在しなかったことに気が付き旅が追わる。
迷いのない無生物が迷っている人間に先んじているわけではない。ユングは錬金術の一派について「物質の世界でまどろみつつ救済を待っている、神と同じ性質を持つ普遍的ソウルを開放するための『救済者である人間』の努力」と語っている。全ての物質が、植物・動物という道筋を通って、自意識の道に迷い、最終的に気づき救済されるという過程を辿るため、錬金術による物質的ソウルの救済は、拡大された菩薩乗だといえる。
そして、広義のトータルセルフとは、物質から自意識を経てワンネスへ、さらにその先へという旅路の全体である。
ニックネーム : Naoki
その時の体験を投稿したいと思います。長年ヘミシンクを聴いて、2年前からセミナーにも参加させていただいているのですが、今回は初めてのF27での共同探索で救出活動を行いました。
個人的にはビジョンやイメージなどは中々みえないほうなのですが、知覚を通して理解することがしばしばあります。今回はとても驚きの体験をしました。
現実の土地の場所をイメージし、目的地に向かう救出活動でした。F27に着いたら、直ぐに同じ参加者のAさんの姿を目撃した感じがしました。
F27に行くと、なんと私の目の前に有名SF映画に出てくるヒーローの車とそのキャラクターがヘルパーさんとして出現しました。車に乗り込み目的地に設定したある場所に向かって出発と言うと、車は目的地の白に近い色の細長い7階建てくらいの病院の前に到着。
その後、私は病棟にある大部屋の左の方にあるベッドへと向かいました。何故かそこに向かっていったのかは不明ですが、CDの最初に、私の助けを必要としている方と会わせてくださいと宣言しました。その甲斐あってか、そのベッドに横たわる青い酸素マスクを付けた青年の所に着きました。歳を聞くと27才とのこと。その後玄関まで連れて行きました。玄関には先程乗ったSF映画の主人公の車があり、どうやら後部にも座席があり、そこに救出した青年を乗せました。
無事F27に着くと出迎えた向こうの世界の医師の方に引き継ぐことに成功。それで初めての共同探索は終わったかに見えたのですが、これでは個人的な救出ですよね。共同探索にしては一人での救出活動だったかな。皆さんには会えなかったかなと少し残念に思いました。
その後セッションのシェアで、おそるおそる話したところ、なんと、同じ参加者のAさんが、私とF27で一緒だったヘルパーが、映画で、出現する際に空に大々的にそのシンボルがサーチライトで投影されるのですが、かなり離れたところからそれを目撃したそうです。
なんでその場所にそのキャラクターと不思議がっていましたが。非物質世界には私が見た視点と異なり様々な視点で知覚したり、体験なさったりされる方がいらっしゃるのだなと思いました。その後の皆さんの発言を聞いてどうやら皆さん同じ場所に到着したようでほっとしました。
ヘミシンクで体験する非物質世界には、たいへん奥が深いものがあるのだなーと感慨深い一日を過ごさせていただき、救出活動の基礎を習得しました。これからも自宅でも救出活動を行なって知覚に磨きをかけられればと思います。
お世話になりました、トレーナーのヒロさん、てるみさん、素晴らしい一日を過ごさせていただき感謝致します。また、お会いするときはどうぞよろしくお願いします。